Storyteller – 識る単位

2012年 11月3日(土・祝)~12月16日(日) 10:00 - 18:00/無料

ロッテ・ライオン

Lotte LYON

奥:《無題》(ウォールペインティング) 手前:《無題》(5つの箱)

振る舞いと空白の彫刻

服部浩之

ロッテ・ライオンは空白を恐れない。むしろ、積極的に魅惑的な空白を生むことで、いかなる状況のいかなる大きさの場においても、そこに最適と思われる最小の行為で空間の様相を変質させる。ライオンの作品全般への明晰で批評的な分析は松井みどり氏の論考[1] により既になされているので、本稿では約3ヶ月の青森での滞在制作のプロセスと完成された作品、そして同時期に東京の青山 | 目黒というコマーシャルギャラリーでの個展で公開された作品を中心に、その関係性に言及しながら、ライオンの彫刻と空間への探求を考察してみたいと思う。

ライオンは、ウォールペインティング、箱形の立体、モノクロの組写真による連作の計3点の作品を制作した。それら異なった表現形態の3作品には明確な関係はないと本人はいう。たしかにアウトプットは異なるが、どの作品も彼女が施したささやかな操作を通じて生み出される余白が多くを物語る、不在をかたちにする彫刻空間とでも言えるようなものだ。

ACACと青山 | 目黒での展覧会が密接に関係しているということは、あまり誰も気付くことはないだろう。そもそも青森と東京という離れた場所での展覧会なので、両方を鑑賞できた人はほとんどいないと思う。ただ、この両展を比較してみると、ライオンの特性がとてもよく見えてくるのだ。ACACは展示室上部の大きな窓から屋外の景色を眺めることができ外光も降り注ぐため純粋なホワイトキューブとは言えないが、展示のためにつくられた巨大な白い空間である。一方で青山 | 目黒はコマーシャルギャラリーという展示と作品販売を目的とした空間ではあるが、建築事務所やショップなどとのシェアで運営されているスペースで、展示空間の奥には異なった活動が見えてしまう不思議な構成になっており、こちらも特徴のある白い空間である。ACACは天井高が6メートル程で全長が65メートルもある巨大な空間である一方で、青山 | 目黒は20-30平米程度の不定形な空間で、その大きさも形態も対照的だ。しかし、どちらも純粋なホワイトキューブではなく空間に適度なノイズが存在するという共通の特徴を有する。ライオンは、このような一見展示には難しく思われる癖のある空間の通常はマイナス要因と捉えられがちな要素を非常にうまく取り込み、作品空間を生成する。ふたつのまるで違う場に、壁面にグリッドパターンのウォールペインティングを描き、その脇に写真作品を設置するという共通の手法により介入することで、対照的ではあるが、共通する感覚が漂う空間をつくりあげた。

まずはACACでの作品から紹介したい。ACACでは濃紺と焦茶の2色を用いてずれて重なるグリッドを湾曲する壁面と、それと交差する地上から3メートルほどの高さで浮遊する壁面の2面にわたって描いた(fig.1)。浮遊する壁面の奥には作品を展示するには充分な大きさのスペースが広がっているのだが、ライオンはそのスペースを空虚のまま保ち、その空白を照明で照らすのみとした(fig.2)。最小限の手法で大胆な不在の場をつくり、空間に驚くほどの奥行きを与えた。物質としての作品はその奥には何もないが、圧倒的な不在という存在感がある。まるで日本の数寄屋造りの建築の内部空間のように、ほとんどなにもないが圧倒的な広がりを有する空間がそこに存在する。これにより、前面のウォールペインティングは一層くっきりと浮かび上がってくる。また、寒色系の色彩によるグリッドが、脇の窓の奥に見える秋から冬に移り変わる11月-12月の寂しげな風景とも妙にしっくりくるのだ。また、ずれて重なるふたつのグリッドは湾曲する面と浮遊する面のふたつの壁面と交わることで、その複雑性を加速させる。曲面壁に斜めに描かれたグリッドを接近して眺めると、パースペクティブが混乱され、平衡感覚がゆらぐような不思議な感覚に襲われる。また、引いて全体を眺めてもやはり不思議な浮遊感のようなものを感じずにはいられない。スケールに対する感覚も立ち位置によって、非常に大きな場所に感じたり、またすべてに手が届くような気分にさせられたりもする。この感覚を麻痺させる快/不快が交錯する経験を、最小限の要素と行為で生み出し、直接身体に訴えかける空間体験を提示する。

また、その手前には椅子のような立体が5つ置かれている(fig.3)。これらは非常に簡素なつくりで、12㎜厚の一般的な合板でボックスをつくり天板をヒンジで留めただけのものだ。天板に色が塗られているものと塗られていないものがある。色が塗られた天板を開けると、中はなにも入っていないただの箱で、天板が塗られていない箱の蓋を開けると、内部に色が塗られている。形態は全く同じで、色彩の有無が反転した対の存在だ。ライオンは些細な操作で、人の想像力をかきたて行為を促す。この椅子のような立体はそのサイズから簡易な椅子にしか見えないし、またヒンジで天板とボックスが接続されていることで、この箱の天板を開けるように人を誘う。開けてもその中に物質はなにも無いが、色彩豊かな空虚が存在する。いくつもの対照関係を小さな操作で生み、色彩と空白のみで不在にかたちを与える。

最後の作品は、壁面に設置された6点のモノクロ写真作品だ(fig.4)。これらはマットレスと椅子を組み合わせて、様々なコンポジションを生成したもので、どれも普通には起こりえない配置関係を捉えたものである。写真のコントラストはできる限り弱く抑えられており、グレーの階調の幅を重視し、劇的になり過ぎないよう注意が払われている。敢えて素っ気ない状態で、しかもありふれた素材で彫刻を構築するのがライオンの特徴だ。彼女は彫刻の備える物質性や重厚感、そして存在感を徹底的に否定する。如何に軽やかに振る舞うか、そして彫刻が備えてしまう重厚感などの原理的な性質を如何に超えるかを探求することで、彫刻を引き受けている。日常的な素材を用い、永続性の希薄なすぐに壊れてしまうものをつくり、不在や空虚を彫刻として定着することを試みる。写真作品でさえ、空白を扱う彫刻として提示している。

青山 | 目黒では、ACACと対照的にビビッドな赤色で正面と側面の二つの交わらない壁面にグリッドを描いた(fig.5)。大空間のACACでは寒色で描いたのに対して、雑居感がありよりノイズの多いこちらの空間では暖色で主要な壁面にウォールペインティングを施し、その他の限られた壁面にモノクロの写真作品を設置した。ACACではどちらかというと線自体は均一に細く描き、さらに傾斜をつけたグリッドと水平のグリッドを交わらせることで、より複雑に延び広がるように見せ、身体感覚をゆさぶるような空間を提示したが、青山 | 目黒では太い線と細い線の二種類の線をビビッドな赤一色で直線的に描くことで、グリッド自体が存在感をもって空間を支配するように設え、壁面以外は空白のままとした。ふたつの壁面の奥にはまったく異なる空間があり奥へとつながっているため一室空間としては認識しづらいのだが、この分断された両壁面にまたがるウォールペインティングを施すことで、鑑賞者の想像力を借りて、ひとつの空間として完結させることに成功している。

ふたつの空間におけるウォールペインティングの対比的な実践は見事である。手法として採用していることはほぼ同一であるが、空間体験は大きく異なる。ACACではウォールペインティングが一部だけに施され全体はほとんど空虚に近い状態にすることで、その奥に広がる空白までもひとつの彫刻空間として成立させる。一方で、もうひとつの場ではグリッドを描くことで奥と手前の空間を分断し、グリッドそのものが全面に現れ物質的な彫刻としての存在感も示すような密度が高い空間をつくりあげた。ライオンは人の想像力を喚起することで、彫刻空間を完成させるのだ。上述のようにライオンは徹底的に構成要素を削ぎ落とすことで、空白そのものを彫刻とする。ライオンが多数の蛍光灯で照らし出した虚空を眺めると、なぜかロラン・バルトによる「その中心は空虚である」 [2] という一言が頭をよぎり、彼女がつくりだす不在の彫刻と、振る舞いを喚起する日本的空間の関係を考えずにはいられないのであった。

[1] 松井みどり「物体の領域から人間の領域へ─ロッテ・ライオンのジェスチュラルなミニマリズム」、青山|目黒、2012年(ポスター型リーフレット)。
[2] ロラン・バルト「中心--都市 空虚の中心」、『表徴の帝国』、ちくま学芸文庫、1996年。

《無題》(ウォールペインティング)

《無題》(5つの箱)

《無題》(6枚の白黒写真の連作)(部分)

《無題》(6枚の白黒写真の連作)(部分)