はかなさへの果敢さ

2018年7月28日(土)-9月9日(日)10:00 18:00、会期中無休、無料

ジャンフランコ・フォスキーノ

Gianfranco Foschino

動きを読みふける

村上 綾

「青森の雪はどこに行くのか?」私から本企画のオファーを受けてくれた時、ジャンフランコ・フォスキーノが投げかけた言葉である(*1)。2018年の3月、豪雪の青森を訪れ、水に関わる作品に取り組んでいた彼からすれば、それは当然の問いだった。ただ、その理由以上に彼の一貫した姿勢を示す言葉だったようにも思う。6月の頭から滞在を始めたフォスキーノは情報を得るための土地のリサーチではなく、その場に行き時間をかけて観察することを重視した。撮影は夜明け前から移動し、奥入瀬渓流やACAC周辺など同じ場所に幾度となく出向いた。また、撮影した映像を繰り返し見て、長い時間をかけて選び、ギャラリー内の配置も試行錯誤を繰り返していく。それは彼自身が作品の中で見せるものと同様に、時間と空間に向き合うことを繰り返す姿勢であった。

ギャラリーでまず目に入るのは、ビデオスカルプチャーの《水の目》である。入口から少し離れたところに流れる水が薄闇に浮かぶように見える。人の身長を優に超える高さのガラス板は垂直にそびえ立ち、左右をコンクリートブロックで支えられている。水紋は、何か像を結びかける瞬間に解け、を繰り返す。画面を見入っているうちに止め処ないその動きに引き込まれ、目が離せなくなっていく。それはおそらく、上から垂直に流れているというよりはむしろ、水が鑑賞者に向かって流れている(*2)ことで、体内に流れ込むように見えているからではないだろうか。雪解け水が川に流れ、土に染み込み、湧き水となって私たちの体内に入る、といった水の循環とともに、水の危機についても思い起こさせる。ここでフォスキーノは、鑑賞者の身体もメディアとして象徴的な作品の一部として表現していると言えるだろう。
その次には、右手の後ろの《密》あるいは《水の目》の奥に見える《森》に目が向いていくだろう。《密》と《森》の場合、白い壁に浮かぶようにして設置された白いフレームに誘われて、絵画あるいは写真かと思ってのぞき込めば、かすかながらも確かなその動きでそれが映像だと気づかされる。《密》は、薄暗い画面の中で、茂った葉が銀色に光りながら風にそよいでいる様子をとらえた映像で、《森》は、森の中で夕日が落ちていく様子をその夕日と向かい合うように撮影した映像作品である。
鑑賞者は《雨が降る前》を円弧形のギャラリーの突き当たり、そして折り返し地点で見ることになる。夏の谷間に出た靄の微細な変化をとらえた映像である。前後左右と染み出すように動く靄が、木々の輪郭を曖昧にし、その奥行きを見誤らせる。ほとんど気づかないほどゆっくりと増していく早朝の光の中で、時折揺らぐ葉に確かな時間を感じさせられる。

フォスキーノは、これまで、定点撮影した自然や都市の風景をリアルタイムで提示する映像作品を発表してきた。映像インスタレーションとして展開することで、映像のもつフレームについても考察を重ねている。
まず、本展でも通底するのは、映像に刺激を与えられること・求めることに慣れきった現在の私たちに対して、能動的に動きを見るよう促す点である。一般的には横長の画面で見ることが多いのに対し、フォスキーノは縦長の画面を採用することで枠からの逸脱を目指し、一方でモニターに白いフレームをつけ絵画や写真との対話を図ることで、映像が「動きを見ること」のために生み出されたメディアであることを強調させていく。さらには、人体以上の大きさのビデオスカルプチャーを実現することで、絵画や写真の額縁が持つ世界をつなぐ窓としての役割を、門(ポータル)までスケールを拡大し、鑑賞者の目だけでなく身体そのものが作品に入り込むように意図している(*2)。
加えて見る側の身体をつないでみせるのは、一瞬の画面のコンポジションの美しさとその連続によって生まれるリズムであろう。漫然と見ていても、いつのまにか彼の映像は音楽さながらに鑑賞者を引き込む。《密》では緩慢とした時間の中にぎらつく葉の上の光と、それによって明らかになる奥行きによって、《森》では向かい合う夕日がゆっくりと沈みながら、照らし出す飛び交う虫や、蜘蛛の巣、目に飛び込む光の色によって実現されている。映像のスペクタクルや奇抜さが私たちを奴隷にするのではなく、眺めるうちに些細な変化も繊細に感じ取ることができるようになり、ただ次の瞬間を見たいと望む探究心を煽っていくのである。
映像の中では、実際に存在した光景が、その複雑さもそのままに提示される。一つの場面に存在する、光、色の配置は、毎秒移り変わり、実際の速度で動き続ける。さらには自然光が円弧形の壁に反射しながらフレームにも注がれ、刻一刻と変わる光と空間によって、映像インスタレーションの複雑さは増していく。《水の目》では、ガラスを通過する、あるいは反射する光、コンクリートの肌理、床に反射する光や鑑賞者の影といった、さらなる複雑さが現れる。
ここで注目したいのは、自然光は鑑賞者自身の身体にも注がれているということである。彼は、時や空間をある種、固定化するメディアである映像を用いながら、彫刻や立体の要素を強調することで、その像を空間的な関係において見せ、見る者の身体へとつながる状態を作っていく。つまり、鑑賞者が提示される映像(どこかの過去)の複雑さに気がつき、空間全体(今ここ)の複雑さに気がつくことで、自分が普段見ている世界そのものの複雑さにも目が行くように仕向けられているのである。

最後に、ACACで着想を得たが実現は叶わなかった作品(*3)について触れたい。フォスキーノはギャラリーBの外壁と池を挟んだコンクリート壁の間の空間に巨大な白いネットを張ったインスタレーションを計画していた。白いネットは向こうの景色はぼやけて抽象画のようになる。ここでは映像の投影はなく、白いスクリーンそのものが、見ることに対する感度をあげるように企図されていた。
つまり彼の試みは固定化されたメディアではまかないきれない。人が見ることについて自ら気づくことのできる表現を探求するために、変わり続ける空間そのものと対話し続け、作品を提示する。その後に鑑賞者の高められた敏感さも含めた状態にこそ、彼の試みの真価が現れてくると言えるだろう。

(*1)滞在開始前のメールでのやり取り。
(*2)レンズを水面と平行でなく、わずかに角度をつけて撮影しているため。
(*3)構想時のスケッチは本稿下に記載。

《水の目》
ビデオスカルプチャー
ガラスにHDリアプロジェクション、コンクリート、鉄、リアプロジェクションフィルム、18分(ループ)、カラー、サイレント、190 x 280 x 140 cm
2019

《密》
ビデオインスタレーション
木製フレーム付き壁付け60インチ液晶ディスプレイ、HD、28分(ループ)、カラー、サイレント
2019

《森》
ビデオインスタレーション
木製フレーム付き壁付け50インチ液晶ディスプレイ、HD、16分(ループ)、カラー、サイレント

雨が降る前
AME GA HURUMAE

暗室にHDプロジェクション
28分(ループ)カラー、サイレント
2019

以上全て 撮影:山本糾