AIR2022:キュレーターズノート
Artist in Residens Program 2022 Curators' Notes
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Makingがみせた旅
慶野結香
2020年度から公募によるアーティスト・イン・レジデンスプログラムの実施方法を改変し、各表現者たちがACACに滞在することで、もしくはACACと協働して実現したい内容によって滞在期間を選択制、各プロジェクトを個展(展覧会の実施は必須ではない)として行うようになって、2022年度は3年目を迎えた。今年のテーマ “Making Things”は当初、本ログラムのステイトメントにも引いた文化人類学者、ティム・インゴルドが物質世界のなかで対話し、応答しながら「つくること=Making」の可能性を問うた『メイキング–人類学・考古学・芸術・建築』(原書は2013年、邦訳は2017年左右社刊)を念頭に置いて構想したが、ゲスト審査員・鈴木ヒラク氏との対話によって、“making”よりむしろ“thing”に力点置くコンセプトとなっていった。“thing”の語源が人々の集い、人々が問題を解決するために集う場を意味することは、ここ3年間における新型コロナウイルス感染症の世界的な流行に伴う移動の制限、国家間のフィジカルな分断のみならず、苦しくも2022年2月24日にロシアがウクライナへ侵攻を行い、戦争状態が今(2023年1月中旬)なお続くという世界情勢にも呼応するものになった。
コロナウイルスの影響下において、これまでの2年間と今年が決定的に異なったのは「ウィズコロナ」政策のもと国際的な移動の制限が緩和され、実際に海外拠点のアーティストの渡航が行えるようになったことだろう。約一年前まで、コロナ感染者数の増加に伴い公共施設の閉館による感染予防策がとられていた青森県内のことを考えれば、これは奇跡的とも言える状況の到来であった。本来であれば、海外拠点者の応募に関しても日本国内の表現者たちと同じように期間選択制で受付けたかったのは山々だったが、本プログラムの応募要綱を整えていた2022年3月の時点では、いつまた状況が変化するか分からなかったこともあり、来日の延期や予断を許さない場合の帰国等にも対応しやすいよう、今回のみ特別に1ヶ月間滞在のみの募集とした。また、コロナ禍がもたらした大きな変化として、オンライン配信やミーティングで気軽に海外と情報交換を行うことが一般的になったことが挙げられるが、このことについてはACACの簡単にはアクセスし難いロケーションも手伝って、魅力や可能性を引き続き感じており、オンライン・レジデンスとして海外作家が応募できる1枠を設定した。
約2年半ぶりに海外から青森に降り立ち、滞在制作を行ったヴァネッサ・エンリケスと過ごした計1ヶ月は、とてもシンプルながらレジデンスとは何かを考える上でとても重要な気づきを与えてくれた。本プログラムでは、学芸員がアーティストのリサーチのために車を出すなどフルサポートが通例となっているが、車中では制作や滞在についてのみらならず、お互いの生活やバックグラウンド、プライベートや悩みなど単なる情報共有とも違う、意外な一面や価値観を知ることのできる貴重な時間を過ごした。青森の風景を眺めながら、確かにあの瞬間、私たちは一緒に旅をしていた。1ヶ月は短い。それでも共に過ごした時間がその場その時の滞在制作だけでなく、異なる風景や環境に生きながら、表現することを継続していきたい人間同士の相互理解や、人物・場所への愛着や感情といったものを形成していくような気がする。それは滞在アーティスト同士でもそうだろう。もちろん、オンライン・レジデンスに参加したネイタン・ディコン=フルタドは、普段から人々の関係性の中でプロジェクトを展開しており、時差もある中で参加者と共に創造することの面白さを伝えてくれた。ただそこには、言葉の壁や彼がこの場におらずコミュニケーションが限定される中で、ワークショップ参加者がアーティストの意図を自発的に汲み取ったり、参加者間で相談して何とかやってみるというある種の想像力やちょっとしたズレがもたらす面白さが含まれていた気がしている。ワークショップや展示の参加者が手がけたモノを介して、逆にアーティストがなぜオンラインでのつながりに興味を持つのか、その意味を教えられることもあった。
展覧会の実施は選択制としている本プログラムではあるが、安藤忠雄設計の巨大なギャラリー空間が存在することや、できるだけ多くの来場者に各表現者の活動を見せたいという我々の意識もあって、実のところこれまで殆どのアーティストが何らかの展示形態をとってきた。今回の参加作家は使用しているメディアや素材、展示がプロジェクトに占める位相は異なれど、ACACのあるこの場や建築物を含む環境、青森という土地に文字通り何かしらを“making”することによって、自らも存在する世界の足もとを照らし出し、他者へと開くことで世界の深度に触れようとする姿勢が共通していたように思う。それもあって、一続きのギャラリーAの空間で頑なに複数の「個展」が行われることに疑問を呈す声もあった。せっかくの各プロジェクトをどのように伝え、受け手へと開いていくかは引き続きの課題として重く受けとめながら、これからも誰かを乗せてACACの旅は続いていく。
異なるものの集合と離散
村上綾
2020年からパンデミック状況下でリモートレジデンスの方法を模索してきた私達にとっては、ネイタン・ディコン=フルタドの方法は目から鱗だった。ワークショップや展覧会では大変軽やかに周りを誘いこんで、プロジェクトを進めていった。観客に視点を一つ二つ提供すれば、みんな遊びながらパターンを発見しつくり出していく。プロジェクトを人と協働するための、ある種の実験装置として走らせながら、モニター越しやスタッフとのコミュニケーションを通じて時折様子を見ていくような方法は、アーティストがその場にいないことの価値さえも見出すものだった。
吉田真也は「死を包むもの」において、縄文時代の人骨が納められた甕棺墓と、核燃料廃棄物の棺となる中間貯蔵の際に使用されるキャニスターを重ねて提示した。一見するとこの方法は遊戯的だが、国策に翻弄される青森を見てきた者としての怒りが静かなモノクロームの画面の奥に沈むように見える。寓話的に語りなおされる二つの事実は交差して虚を招き、生まれる物語は、現代に起こる事実の奇妙さをも伝えている。
ヴァネッサ・エンリケスがVHSテープで制作した作品は、来場者に多くの視点を提供した。重力で生まれる放物線は、空間の中にドローイングとも言えるし、角度によって太さが変わるため線が面として見えれば彫刻として感じ取れる。身の回りのもの全てをドローイングの手掛かりにしていく彼女の好奇心も、会期中に制作・追加されていく作品によってうかがい知れた。
橋本晶子は、絵画(ここではないどこか)展示空間(ここ)を繋げるべく、窓からの光と影までも取り込み、その変化も含めて鉛筆画を中心にインスタレーションを発表してきた。その取り組みをACACの異なる天井高をもつ空間で展開し、実施したプライベートツアー「影に触れる」においては、ガラススプーンに特別に触れる機会を設けるなど接点を増やし臨んだ。ギャラリー空間から架空の作品世界に呼び込むための、セレモニーにも似た時間は、人と空間そして作品との親密な時間を生み出していった。
前田耕平は、ACACの位置する八甲田山の麓を山の神の足に見立て、マッサージを行うイメージでプロジェクトを進めていた。触る側・触られる側の反射(ある種のコミュニケーション)が行われるリフレクソロジーさながら、人と集い、共に麓を温める数々のエクササイズは、大地の力を揺らし呼び起こす動きとなった。
今回のレジデンスプログラムにおいて、アーティストも国を超えて、市民とも集まるという行為が直截的に実現しただけでなく、むしろアーティストにとっては、これからまた他の場所に向かうための停留所として機能したように思う。個々のプロジェクトが引き立つことを願って、公募型のAIRも構築してきたACACにとって望んだ状況が発生したといえるだろう。ここで集うことはまた方々に散ることを意味し、同様にまた離れることも異なる他者と集うことでもある。
ここで繰り返す営み
武田彩莉
元来アーティスト・イン・レジデンスはその性質上、人の移動と集まりが欠かせないものになっている。そしてそこへ来るアーティストもまた移動がその営みに組み込まれている存在であるといえるだろう。
猛威を振るう新型コロナウイルス感染症の拡大防止に係る規制が2022年に入り徐々に緩和され、移動や集まりへ対する障壁も薄くなってきた。しかしこの不安定な情勢にも慣れてしまい、もはやそれ以前当たり前だった移動や集まりを思い返すことも難しく感じる。そんな中、移動と集合の器になりえるAIRはどうあるべきなのだろうか。
今年度からACACの活動に携わる私は、移動体と器という両眼を備えながらその在り方を見ていかなければいけないように思っていた。今年度のプログラムでは約2年半振りに海外からのアーティストの招聘も叶い、国外からはACACで滞在制作を行うアーティストと、リモートレジデンスへ参加する2名を招聘、国内からは3名が参加し、計5名のアーティストが集うプログラムとなった。
まず最初に、プログラムが進んでいったのは、リモートでの参加となったネイタン・ディコン=フルタドだった。彼はACACで行うリモートプログラムという問いに、作品を介して生まれる協働の場という応答を返した。10月から行われた「共同展示ラボ─ACACのフィールドワーク」では、会場内に置かれたモジュールという構造物を来場者が動かして風景を変化させていくという方法で彼が作った風景と、こちらで起こる不確定なアクションを重ねて見せた。もちろんその場に彼はいないが、受付のアルバイトスタッフがいつも来場者に丁寧な案内を行ってくれていたことは無視できないし、それもまた作品を介した場の一つなのだろう。
10月に入り徐々にアーティストの滞在も始まっていく。本プログラムは展示を前提としないプログラムではあるが、今回は全員がACACでの展示を希望したため、やってきたアーティストたちはまず、展示へ向けて各々活動を始めていった。
ギャラリー内や創作棟で作品を作り続ける人がいたり、リサーチのため青森の各地に出歩く人がいたりと、各々の活動は当たり前だが様々な方向を向いて進み、そしてそれらの活動はひとまず、ACAC内へ展示やイベントという形で戻ってきた。これらの活動は、各々に引き継がれながら元の場所へ、次の場所へと移動を始めるのだろう。
ACACのプログラムに集合する人たち、そしてそのプロジェクトに参加するために集う人たち、一時のフラクタル構造をつくり、プロジェクトの終わりと共に別の場所へ移動する、この移動、集まり、また次の移動がACACを息づかせていく。
これからも繰り返されるであろう人の移動と集まりのメタボリズムはACACを常に変化させていく出来事であると感じたと同時に、私たちもこのプログラムのあり方・方法を考え続けていかなければならない。
“Making” realized that trip
KEINO Yuka
The implementation method of our artist-in-residence program was updated in 2020. Now artists/participants can choose the period of their stay according to the content of their projects that they want to realize with ACAC and hold their solo exhibitions of their projects (although holding an exhibition is not mandatory). The year 2022 was the third year with that method, and the idea for the program’s theme “Making Things” was taken from Tim INGOLD’s book, MAKING: Anthropology, Archaeology, Art and Architecture (2013, its Japanese version was published in 2017 from Sayusha) as was noted in our program’s statement. Ingold questions potential of “making” while he has dialogues and answers questions in the material world. The program concept shifted to “things” rather than “making” after we had dialogues with guest judge Hiraku Suzuki. The origin of the word “thing” comes from “meeting” or “assembly” for people to solve a problem, and it was in concert with our situation of restriction on people’s movement and the physical division of countries due to the worldwide spread of COVID19 and the ongoing war (as of January 2023) after Russia invaded Ukraine on February 24, 2022.
What was different for 2022 compared to the last two years under the influence of the corona virus was that the international restrictions on movement was softened under the measures of “living with corona” and artists based abroad can actually come to Japan. About one year ago, public facilities were closed to prevent the spread of the virus in Aomori Prefecture due to the increase in the number of patients, so the present situation seems miraculous. Basically, we very much liked overseas artists to choose the length of their stay just like artists from Japan, but at the point of March 2022 when we were preparing for the application procedures of the program, we did not know when the situation would change suddenly. Thus, we set the time limit of one month stay for the overseas artists so that we could cope with the postponement of their trip to Japan or in case they have to return to their home countries. A big change that COVID19 brought to us was easier exchange of information with people living overseas via online communications and meetings. As ACAC is difficult to access in terms of location, we were attracted to and saw potential in such communications, and we provided one quota for an overseas artist participating online.
After about two years and a half, Vanessa ENRÍQUEZ came to Aomori from abroad and stayed here for a month to work, and it made us become aware of important things when thinking about what a residence program was, although it was quite simple. Usually, the curators provide artists with full support such as driving them to wherever they need to go, and we talk about things other than their residency like our personal lives, backgrounds, private issues and problems, which are different from mere exchange of information, and it was a precious time in which we could get to know unexpected side of a person or perspective they had. In the moment of looking at the scenery in Aomori, we were certainly going on the same trip together. One month is short. The shared time, however, was not confined to the residency production at the site, and it seemed to have built mutual understanding between individuals, who wanted to continue to express while living in different scenery and environment. It also nurtured love and emotions for people and places, while the people included the residency artists. Natan DIACON-FURTADO, who participated in the online residency, had been developing his projects in relations with others, and conveyed his excitement about creating with the other participants despite the time difference. While there was certainly a language barrier and our communication was limited because he was not here, participants of his workshop spontaneously tried to read the intension of the artist, and a kind of imagination and the resulting gap as the participants tried to manage it talking with each other seemed to have made it more interesting. Through the works of the participants in the workshop and the exhibition, we sometimes realized why the artist was interested in the online communications with them.
In our program, implementation of an exhibition is optional, but most artists have held exhibitions in the past because there is the gallery space designed by ANDO Tadao and we feel that we want to show their activities to as many people as possible. Although the participating artists’ media, materials, and their exhibitions within the phases of their projects differed, they shared common attitudes of trying to shed light on their steps in the world they live in, trying to touch the depth of the world via opening themselves to the other, through literally “making” something in the environment including the ACAC site, architecture, and the land of Aomori. Some people questioned why we persistently held several “solo exhibitions” in the connected Gallery A space. While we take it seriously as to how we convey and open each painstaking project to the viewer, we would like to continue the ACAC’s trip with someone.
The Gathering and Separating of Differences
MURAKAMI Aya
Since the pandemic began in 2020, we curators had been searching for the best way to carry out our residence program remotely; for us, Natan DIACON-FURTADO’s project was a revelation. In his lighthearted workshop and exhibition, participants were invited, after a few words of guidance, to discover and create their own patterns. From time to time, Diacon-Furtado would check in via monitor or through communication with staff, a kind of experimental setup which not only allowed him to make the project collaborative, but also made up for his physical absence from the venue.
In YOSHIDA Shinya’s Something that holds death, the image of a Jomon-era (ca 14,000-300 BCE) jar-coffin containing a woman’s remains was shown alongside that of another kind of “coffin”: a canister used for the temporary storage of nuclear waste. At first glance this seemed to be a playful juxtaposition, but buried just beneath the surface of the tranquil monochrome screen was the anger of someone who had seen his home prefecture become an unwilling tool of national policy. Retold as allegory, the story that emerged from these two intersecting realities caught viewers off guard, lending a strangeness to the truths of our modern age.
Vanessa ENRÍQUEZ’s work, made out of VHS tape, offered a multitude of perspectives. The parabolic arcs induced by gravity could be described as drawings in space, or – if seen as surfaces – even as sculptures, the thickness of their lines changing depending on the angle of viewing. Enríquez used everything around her as cues for her drawings, her curiosity evinced by the additional works she created as the exhibition progressed.
HASHIMOTO Akiko presented an installation structured around pencil drawings, utilizing the different ceiling heights of ACAC’s galleries and even the light and shadows coming through the windows to connect the “here” of the exhibition space with the “somewhere else” of her drawings. To increase the points of contact with visitors, she also conducted private tours which included a special encounter with a glass spoon. There was an almost ceremonial mood as one was called out of the gallery space and into the imaginary world of her drawings, creating an intimate moment between person, space, and artwork.
MAEDA Kohei likened the foothills of the surrounding Hakkoda Mountains to the “feet” of a mountain god, and thus viewed his project as a kind of “foot massage.” Just like the reflection of the toucher and the touched that occurs in reflexology (a kind of communication), Maeda’s various exercises, in which participants gathered to “warm” the feet of the mountains, in turn called forth the earth-shaking power of Hakkoda.
This year’s residence program not only succeeded in bringing artists and ordinary citizens together across national borders; for the artists themselves, it also served as a stop on their separate journeys to new and different places. We at ACAC, who offer the open AIR program to help individual projects such as these stand out, can say that the results have turned out just as we had hoped. To gather here also means to separate, and likewise to leave here also means to gather again with different people.
The Acts Repeated Here
TAKEDA Ayari
By nature, artist-in-residence programs require the meeting and movement of people. And movement is also a fact of life for the artists who participate in them.
Beginning in 2022, with the gradual easing of the restrictions that were put in place to prevent the spread of COVID, the barriers to meeting and movement also began to fall. But we had grown accustomed to this unstable situation, and it had become difficult to think back on the ways of meeting and moving which had been so commonplace before the pandemic in the same way. So what, then, should an AIR that serves as a vessel for such meeting and movement look like? I, having just begun my first year at ACAC, felt that I had to view it as both a vehicle and a vessel in order to find the answer.
For the first time in about two and a half years, we were able to invite artists from overseas. This year’s program featured five artists: three from inside Japan, and two from outside, one of whom participated remotely.
The latter, Natan DIACON-FURTADO, led off the program. He responded to the problem of his physical absence from ACAC by using art as a medium for inspiring collaboration. Beginning in October, his “Fieldwork at ACAC: Collaborative Exhibition Lab” invited visitors to change the appearance of the exhibition space by repositioning various structures – called “modules” – which had been placed around the room, thereby contrasting the scenery he had created against that created by the visitors’ indeterminate actions. Although Diacon-Furtado was not here in person, I cannot go without mentioning the staff who courteously relayed his directions to the visitors; I suppose this was another way in which his art became a medium for collaboration.
From October, the other artists came to begin their residencies. While not strictly required in the AIR program, all of this year’s artists wished to hold exhibitions, and those who participated in person spent their first days at ACAC getting ready. Some worked in the gallery and the Creative Hall, while others set out to conduct research throughout the prefecture. Naturally, each of their activities proceeded in different directions, but always ended up returning to ACAC in the form of exhibitions or other events. These activities may begin a movement from one place to the next, as each is succeeded by another.
The artists who gather here, and the people who come to participate in their projects, create temporary fractal structures before moving on to other places when the program ends. This moving, meeting, and moving again is what brings ACAC to life.
We must keep thinking about how and what our program should be; at the same time, this metabolism, this repeated moving and meeting of people, means that ACAC will probably remain in a state of constant change.