小田原のどか 個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」のためのキーワード集
Keywords for ODAWARA Nodoka Solo Exhibition “Overcoming/Sculpting Modernity : Aomori Snow Country Edition”

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表現のコモンズ vol. 5 表層/地層としての野外彫刻 プロジェクト2021「ここにたつ」として開催している(2021年12月25日-2022年2月13日)小田原のどか 個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」。本展は、小田原のどかの個展ですが、様々な作品や物品を展示しています。展覧会場でも配布している、小田原のどか執筆によるこのキーワード集(随時更新予定)を手掛かりとして、展覧会の予習・復習などにお役立ていただけますと幸いです。(ACAC)

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 ご来場ありがとうございます、小田原のどかです。本展は、国際芸術センター青森主催による私の個展ではありますが、物故作家や存命作家の作品など、様々なものを展示しています。なぜこのように展覧会を構成する必要があったのか、こちらのキーワード集に手掛かりを記しています。これを参考に、思い思いに会場をめぐっていただければ幸いです。

〈近代を彫刻/超克する〉
 昨年秋に講談社から刊行した私の単著のタイトルです。「近代の超克」とは、太平洋戦争勃発直後の 1942年、雑誌『文学界』で特集された記事の標題です。ここでは13名の男性評論家によって、西洋文化の総括と克服が論じられました。「知的協力会議」と銘打ったこの記事は、2日間にわたるシンポジウムの記録であり、ここでの参加者の大半は京都学派の哲学者で構成されていました。
 京都学派とは、京都帝国大学で教壇に立った哲学者・西田幾多郎と田辺元を中心にした思想家たちのつながりを指します。1930年代から40年代の日本において、京都学派は大きな影響力を持ち、彼らの言論は「大東亜共栄圏」による他国への侵略を後押しすることにもつながりました。
 本展のタイトルでもある私の単著『近代を彫刻/超克する』は、本邦の彫刻について語ることはこの国の近現代史に光を当てることにほかならない、という視座から書かれています。彫刻は様々な芸術領域の中でも、とくに社会、そして政治とのつながりが深い存在です。日本の公共空間には、なぜこれほど裸体像が無造作に置かれているのか、他国では見られないこの現象について、それら裸像を「戦後民主主義のレーニン像」と位置づけ、社会の変遷の定点観測装置としての彫刻を、私は同書で論じました。
 本展は、同書に端を発し、八甲田山に設置されたふたつの彫刻(大熊氏広《雪中行軍遭難記念像》(1906年設置)、高村光太郎《乙女の像》(1953年設置))に注目することで、本邦の近代の断層をあらわにする試みです。
 
工部美術学校と東京美術学校
 日本で最初に彫刻教育を行った官立の美術学校、工部美術学校は1876(明治9)年に開校し、本格的な西洋美術教育を実施するため、彫刻学科にはイタリアからヴィンチェンゾ・ラグーザが招かれました。しかし、国粋主義の台頭とともに廃校となり、卒業生は一代のみでした。本展で取り上げた大熊氏広は、工部美術学校の最初で最後の卒業生であり、同校彫刻学科を首席で卒業した彫刻家です。
 他方、東京美術学校は、工部美術学校の廃校後に創設されました。工部美術学校廃校の要因となった国粋主義の興隆を背景に、浜尾新・岡倉天心らを立役者として1887(明治20)年に設立されました。高村光太郎の父、高村光雲が彫刻科教授となり、光太郎も同校で学んでいます。第二次世界大戦後、東京音楽学校と合併し、現在の東京藝術大学となりました。

大熊氏広の模写・素描
 近代日本における最初期の彫刻家のひとり・大熊氏広は、工部美術学校を卒業後、工部省に勤務して西洋風建築物の装飾を手掛け、のちに彫像制作にも従事しています。大熊の代表作は、靖国神社の参道にある《大村益次郎像》です。この制作依頼を受けたことにより、明治21年にヨーロッパに留学し、多くの記念的造形物を実見するとともに鋳造の知識を深め、帰国後の1893年に《大村益次郎像》を制作しました。
 本展で紹介する大熊のドローイングは、数ある中から、欧州留学時にスケッチしたもの、工部美術学校時代に描き残したものを中心に、台座や彫像に関わるものをセレクトしています。興味深いのは、大熊のドローイングが、現在の美大・芸大生が体得することを求められるデッサンの方法論とは大きく異なるものであるということです。奥行きや量感を重視するのではなく、輪郭線が強く意識されています。
 前述のように、工部美術学校は大熊の卒業後に廃校となり、東京藝術大学の前身にあたる東京美術学校が開校しました。東京美術学校の教育が現在まで続く美術教育の基礎の一端となっているいっぽうで、工部美術学校の美術教育がこんにち顧みられることはほとんどありません。

彫像ブーム
 日本近現代史研究者のタカシ・フジタニは、大熊が手掛けた《大村益次郎像》が建立されたことを皮切りに、日本における「スタチューマニア(彫像ブーム)」が始まったと指摘しています(Takashi Fujitani, “Inventing, Forgetting, Remembering,” Race, Ethnicity and Migration in Modern Japan, Routledge, 2004. )。
 第二次世界大戦末期の物資の不足による金属供出、そして占領下での米軍による指導により、いまではその面影はほとんど残されていませんが、かつての帝都には、彫像ブームといって過言ではないほど、戦意高揚と深い結びつきを有する国民的記念碑としての彫像が、数多く設置されていました。
 画家・福沢一郎は、敗戦後の東京を、「軍神や将軍の尊大な銅像が姿を消して、台座ばかりが廃墟を背景に残照を浴びているのが戦後東京の風景だった」(1950年12月13日付「毎日新聞」夕刊)と述べています。福沢の評論は、「これ[筆者注:尊大な銅像]に代わって低俗な裸婦や厭味な記念碑が林立されてはたまらない」と続きます。それが「低俗」であるかはさておき、裸体彫刻については、福沢の苦言はまさに現実のものとなりました。

油粘土と水粘土
 工部美術学校と東京美術学校の彫刻教育の違いは、彫刻制作の素材の違いにも認められます。前者は油粘土を用いましたが、後者は水粘土を用いて教育を行いました。水粘土による彫刻制作の技法は、いまも彫刻の基礎として重用されています。他方、現在の高等教育機関における彫刻教育において、油粘土が使用されることはありません。ふたつの粘土の特性は大きく異なり、最大の相違は、水粘土は放置すると干からびてしまうということです。本展会場中央には、〈歴史のif〉を象徴するものとして、ふたつの粘土を置いています。

高村光太郎と大熊氏広
 高村光太郎は、大熊の《大村益次郎像》について、「稚拙の技を公衆に示している」「児戯に等しい観があつて、何等の貢献をも日本彫刻界にしていない」と酷評しています(『中央公論』51巻、1938年)。
 このような苛烈な評価は、彫刻作品としての出来不出来を論評したというよりも、オーギュスト・ロダンに私淑した高村光太郎が、ラグーザに親炙した大熊ら工部美術学校系の彫刻家を日本彫刻界の亜流とすることで、彫刻の正統を確立しようとしたと捉えることができると私は見ています。
 高村光太郎もまた欧米に留学しますが、ほとんど絶望に近い感情とともに帰国します。また、光太郎は、多くの戦意高揚詩を手掛けたことでも知られ、1941年の大政翼賛会第2回中央協力会議においては、「全国の工場施設に美術家を動員せよ」という議案を提出した人物でもあります。
 本展では実物を展示することは叶いませんでしたが、私が写真撮影を行った大熊氏広《雪中行軍遭難記念像 マケット》に、大熊が油粘土を用いて彫刻を制作した痕跡がよく現れています。高村光太郎《乙女の像試作第一号群像》と見比べていただくと顕著ですが、光太郎は手の痕跡がよく残るよう、作業を行っています。このようなやわらかさと、手の跡を生々しく残せることが、水粘土の特性のひとつです。
 他方、油粘土はより細密で、かたい造形をつくることが可能です。友人の彫刻家・黒田大スケさんと《雪中行軍遭難記念像 マケット》を実見した際の驚きは、これほど細かな造形は水粘土では実現できないだろうということでした。

彫刻と複製
 高村光太郎《乙女の像》は、光太郎の最後の彫刻作品です。1953年秋に完成し、いまも十和田湖の湖畔に立っています。十和田湖国立公園指定15周年を記念してつくられたこの彫刻の最大の謎は、なぜ女性がふたりなのかということです。《乙女の像試作第一号群像》を見ていただくとわかるように、女性の裸像は同じひとつの原型から複製されています。
 彫刻と複製については、とくにロダンの作品をめぐって様々に論じられますが、工部美術学校と東京美術学校、その最大の違いであると私が考えるのは、前者の彫刻家たちがロダンの洗礼を受けていないということです。翻って言えば、後者の彫刻家たちは、ロダンの決定的な影響下にあります。中心人物は荻原守衛(1879-1910年)と高村光太郎です。光太郎が編訳した書籍『ロダン』は、昭和期の彫刻家たちに多大な影響を与えました。本書を〈バイブル〉と表現した男性彫刻家もいるほどです。
 日本におけるロダンの受容は、白樺派などの存在もあり、自然主義的側面の評価に重きが置かれていますが、欧米のアートセオリーにおけるロダンの特異性とは、一例を挙げれば、ロダンが手掛けた《地獄の門》の装飾の一部が抜き出され、複製され、量産され、《考える人》という名を与えられ、もとの文脈から切り離されて、あたかも最初から自律した彫刻作品であったかのように世界中の美術館に収蔵されていく様相それ自体にあります(ロザリンド・E・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ:モダニズムの神話』谷川渥・小西信之訳、月曜社、2021年)。
 ロダン《地獄の門》の最上部には、3人の裸体の男性の彫刻が据えられています。これも《乙女の像》と同じく、ひとつの原型から複製したものです。ロダンがこれほど自覚的に彫刻を「コピー&ペースト」したことを、光太郎も《乙女の像》において踏襲したのではないかと、私には思えてなりません。
 そしてまた、彫刻と複製を考える際に重要であるのが、模造の問題です。田村進《大熊氏広  雪中行軍遭難記念像》は大熊の彫刻を検討・把握するためつくられた彫刻として、とても興味深い作品です。他方で、会場に配した多数の「お土産彫刻」は、ふたつの彫刻が観光地化されたからこそ企画され、量産されたものですが、もとの彫刻から大きく逸脱した、ユーモラスなものが多くみられます。なぜ人は彫刻をつくるのか、欲するのか、そのヒントがここにあるように思います。

空の台座
 本展では、《雪中行軍遭難記念像》と《乙女の像》の台座を実寸で再現し、これを紙と木を用いてつくりました。これは、拙著『近代を彫刻/超克する』で展開した、彫刻記念碑の本体は台座であるという論を作品化したものであり、「永久設置」という名目で置かれる続ける〈堅牢な彫刻〉への違和から端を発しています。

雪中行軍遭難事件
 1902(明治35)年1月、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難し、参加者210名中199名が死亡しました(うち6名は救出後死亡)。本事件は、近代登山史における世界最大級の山岳遭難事故として知られます。
 大熊が手掛けた《雪中行軍遭難記念像》は、直立のまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の姿を表しています。全国の将校らの寄付を資金として大熊に制作が依頼され、事件から数年のちの1906年7月に除幕されました。最も多くの兵士が亡くなった、露営地近くの場所(青森市横内)に、後藤伍長の像はいまも立っています。 
 この遭難事件で亡くなった死者の7割以上が岩手県出身者であり、寒冷地の農家を出自とする者が大半でした。本事件は小説化や映画化もされ、高度経済成長期の本邦における「教訓」として活用されてきた側面があります。
 私は本展で、本会場からほど近い幸畑墓苑の雪中行軍遭難事件の死者の墓標をかたどり、拓本とともに配置しました。陸軍墓地の階層構造を無化し、墓標を台座として捉えることは可能かということを考えて制作しました。

五輪塔
 五輪塔は仏教の伝来とともに広まりましたが、本邦以外ではほとんど見ることができない形式であるとも言われます。5つのパーツが積み重ねられた五輪塔は、地震や台風などでたやすく倒壊し、パーツがバラバラになるとその度に積み上げて再建されます。西洋をモデルとする、そびえ立ち、屹立する、永遠不変で不滅の塔とは異なるあり方を、私は五輪塔に見ています。

「近代日本彫刻史」と、義手、模型、人形、模造品
 本展では、大熊氏広、高村光太郎ら近代日本最初の彫刻家とともに、今克巳、田村進ら青森出身の作家の作品、そして雪中行軍遭難事件生存者のひとり、小原忠三郎さんの義手を展示しています。また、本展では紹介できませんでしたが、《乙女の像》制作助手も務めた、上北郡出身の彫刻家、小坂圭二(1918-1992年)と、青森市出身の画家・彫刻家、鈴木正治(1919-2008年)も、青森の彫刻を考えるうえでとても重要な存在です。
 既存の「近代日本彫刻史」には、多数の排除が内包されていると私は捉えています。例えば、高村光雲に影響を与えた生人形師・松本喜三郎(1825-1891年)が日本初の義足をつくった1867年を起点とする彫刻史があり得るだろうと想像します。あるいは、工部美術学校や東京美術学校で学んだ彫刻家に師事し、地方で人形や陶器製作に従事した女性作家たちの歴史を、彫刻史の内部でつむぐ必要を強く感じます。
 義手、模型、人形。現状では彫刻の周辺とされるものの個別の可能性に光を当て、そしてまた、歴史からこぼれおちた女性彫刻家たちの存在を可視化し、「近代日本彫刻史」を多様な声が響くものにしていくこと、彫刻を多様性という意味に開くこと、その最初の一歩が拙著であり、本展であると考えています。

  • 小田原のどか
    ODAWARA Nodoka

    1985年宮城県生まれ、東京都在住。彫刻家、評論家、出版社代表。芸術学博士(筑波大学)。主な展覧会に「あいちトリエンナーレ2019」、「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」(共同キュレーター、東京藝術大学大学美術館 陳列館、2020年)。主な著書に『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021年)。経営する版元から『原爆後の75年:長崎の記憶と記録をたどる』(長崎原爆の戦後史をのこす会編、書肆九十九、2021年)を刊行。「東京新聞」「芸術新潮」「美術手帖(ウェブ)」にて評論を連載中。

    http://www.odawaranodoka.com/

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  • ODAWARA Nodoka

    Born in Miyagi, 1985. Lives in Tokyo.
    Sculptor, critic, head of publishing company, Shoshi tuskumo. Doctor of Arts (Tsukuba University). Selected exhibitions include the Aichi Triennale 2019, PUBLIC DEVICE: Symbolism and Permanence of Sculpture (co-curator, Chinretsukan Gallery at the Tokyo University of the Arts, 2020). Selected publications include Overcoming/Sculpting Modernity (Kodansha, 2021). Published 75 years after the Atomic Bombing: Tracing the Memory and Archive of Nagasaki (edited by the Association of Preserving the Nagasaki Postwar History After the Atomic Bombing, Shoshi tsukumo, 2021) through the publishing company she heads. Writes a regular criticism column for Tokyo Shimbun, Geijutsu Shincho, and Bijutsu Techo (web).

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